Another mind
暖かな日差しが降り注ぐ庭園で、ジズは柔和な微笑みを浮かべていた。
その目線の先にあるのは、少し前にアッシュから貰った薔薇でできた作りかけのアーチ。事故で壊れてしまった薔薇のアーチを育て直そうと植えてみたが、順調に育っているようだ。日差しの下で、緑の葉と茨が伸び伸びと育っている。もう花は盛りの時期を終えてとっくに花弁を落としてしまったが、根はしっかりと息づき、来年また花を咲かせる為に日の光を葉で一杯に受け止めている。アーチの骨組みはまだ三分の一程露出しているが、来年の春には茨が覆い尽くし、完璧な薔薇のアーチができる筈だ。そう考えると嬉しさと期待で笑みが広がる。
この分だと、本当に前のアーチより美しい仕上がりになってくれる……
屋敷に戻り、廊下を歩きながら心内でそう呟いて庭作業用の手袋を外し、満足の笑みを零した。その様子を見たメバエがトコトコと近づいてジズを見上げる。
「ご機嫌デスね。オ花の育チガ宜しかッたノデスか?」
「ええ。とても」
訪ねるメバエに、微笑んで答えるジズは本当に嬉しそうだ。
他の人形達の挨拶にも応えながら、優雅に階段を上がり自室に入る。午後の日差しが大窓から差し込む暖かな部屋にも、庭園から切り取ってきた花々が活けてある。その甘い香りを吸い込み、うっとりと息を吐いた。今日は秋だというのにとても暖かい日だ。春から夏にかけて咲く花の時期は終わってしまったが、これからは秋桜やフォセリア、ストロベリーフィールドに秋薔薇といった花が花弁を開く。
こんな、命の無い自分でも、命を育む事ができると思えるのが嬉しくて、ジズは園芸を行っている。心を込めて世話をすれば、必ずそれに応えるように花を咲かせてくれる植物達。
自分に、人形の声だけでなく、植物の声も聞こえたらいいのに――
そう願う事もあるが、やはり今のままでいい。声が聞こえなくても、彼らはその姿で全てを伝えてくれるのだから……
満ち足りた気持ちで帽子を外しポールに掛けると、ベッドに腰を下ろす。以前も薔薇のアーチはとても気を遣いながら育てたので、それが壊れた時は本当に頭を抱えた。また新しく薔薇の鉢を買ってこなければならないと思っていた矢先、アッシュが自分に手渡ししてくれた、真赤な薔薇。
あの人も、意外と気がきくんですね……
自分の過去を話してから、どうしようもなくついて来るアッシュを煩わしいと思った事は、実はない。自分を好きだと言ってくれた彼を突き放すような事はしていない。何となく彼に優しく接する事が気恥かしくて、周りからは煙たがっているように見える接し方をしているが、自分が彼を嫌いではないという事は、まだ言う気はない。
つい数ヵ月前まで、自分の存在に気付くと煩わしそうに顔を顰めていたアッシュに対して、あまりいい印象は持っていなかった。どうやら彼は自分を嫌っているのだろうなとは思っていたが、その理由などを聞く機会もなく、別にそれでも構わないとぼんやり考えていた。しかし、話をする事で和解した。彼はこれまでとは正反対の感情を自分に抱いてくれて、それは嬉しく思う。誰でも、嫌いに思われるよりは好意を持ってくれる方がいいに決まっている。そして自分も、そんなアッシュに対する印象は変わった。一度心を開いてくれれば、彼はとても親切で明るいという事が解った。
だが、まだ彼を嫌いではないという事は、言ってあげない。
そう悪戯な笑みを浮かべるが、ふと考えるように口に指を当てた。
本当は……違うのではないだろうか?
嫌いではないというより、本当は自分も――
「!」
思い至りそうになった思考を慌てて振り払い、自嘲気味な笑みを浮かべる。
そうだ。あり得ない。ある筈がない。そんな事――
〈気付イテイルノダロウ?〉
「っ!?」
突如響いたその“声”に素早く振り返ると、いつの間にか、そこには一人の青年が浮かんでいた。
その声は耳から聞こえたというより、脳に直接響いてきた。しかも自分の声そっくりで驚いたが、それよりも彼の姿に驚愕した。
今自分が着ている服と全く同じだが、色は正反対の白い紳士服。羽飾りも自分の赤とは対極の青い色。仮面も反対の黒い物で、覗く左目は自分の右目と全く同じ、深紅の瞳。その肌は普通の人間にはあり得ないような薄いクリーム色。ジズの髪は漆黒の短髪だが、目の前に浮かぶ彼は長い金髪を一つに束ねていた。そう、丁度昔、死ぬ直前まで長かった自分がしていたのと同じ位置、同じ長さで。
そして何よりも、その顔は鏡を見ているかと思わせる程、自分と瓜二つだった。
……私?
瞳を見開き、自分とそっくりでいて正反対の彼を見る。
――生前(むかし)の私……?
内心でそう呟くジズに、彼は当たり前のように口を開いた。
〈ソウ。私ハオ前自身ダ〉
「!」
心を読まれている。そう思った時には、ジズは彼に仮面を剥ぎ取られ、ベッドに押し倒されていた。突然の事に抵抗する事もできず、ただ両目を見開いて彼を凝視する。背筋を冷たい悪寒が駆けあがった。肩を強く押し付けたまま、彼はその唇を三日月型に歪め、不敵な笑みを浮かべた。
〈オ前ハ自分ノ右目ガ血ノ色ヲシテイルトイウ事ヲ忘レテハイナイダロウ?〉
その“声”が響いてから、何故か部屋の明度と温度が急激に下がった気がした。
顔が引き攣る。何故その事を知っている? 自分自身?
〈覚エテイルノダロウ? 最初ノ契約ノ内容ヲ〉
「――貴方は……何者ですか!?」
堪らず叫んだジズに、彼はゆっくりと自分の顔を覗きこむようにして言葉を綴る。
〈言ッタロウ? 私ハオ前自身ダト。オ前ガ契約違反ヲシソウニナッテイルカラ警告ニ来テアゲタマデダ〉
自分と同じ、深い血色の瞳で真っ直ぐに見据えられ、ジズは冷たい汗が浮き出るのを感じながらも震え交じりの声を振り絞る。
「……っ……違反って……どういう事ですか?」
その言葉に、彼は少し笑いを含んだ声で、
〈ホウ……自覚ハ無イノダナ。ナラバ教エヨウ〉
そう言ってジズの黒髪に指を入れる。
〈オ前ノ契約内容ハ、“己ノ変化ト引キ換エニ永遠ノ時ヲ”ダッタロウ?〉
そのまま頬を撫で、顎を軽く持ち上げた。
〈ナノニオ前ハ“変化”ヲ迎エントシテイルデハナイカ。コレマデタダ一人ヲ想ッテキタノニ……〉
彼は断定的に、言い放った。
〈オ前ハアノ人狼ニ対シテコレマデト違ウ感情ヲ抱イテイルデハナイカ〉
瞳を見開くジズ。一瞬息が詰まり愕然と彼を見返して、振り絞るように叫んだ。
「……これまでと違うって……そんな馬鹿な事……!!」
〈否定スルカ? シカシソレハオ前ノ理性デ、本心デハソウハ言ッテイナイ筈ダ〉
ジズの否定も簡単に揉み消し、冷たい音域で、彼は続ける。
〈コノ七百年間、オ前ハ自分ガ殺シタアノ女ノ事ダケヲズット想ッテキタ筈ダ。シカシ今ハ? 今ノソノ状態ハ立派ナ“変化”ダトハ思ワナイノカ? ソレハ最初ニ結ンダ契約違反ダトハ思ワナイト?〉
「っ!」
思わず耳を塞ぐが、頭に直接響いてくる彼の声に、それはあまりにも意味を成さない行為だった。そんなジズに構わず、彼は続ける。
〈ソレニ考エテモミロ。オ前ハ過去ノ悲劇ヲモウ一度繰リ返ソウトシテイルノダゾ?〉
その言葉に怪訝な表情を浮かべるが、次の一言で、それは驚愕に変わった。
〈アノ人狼ガ本気デオ前ヲ愛シテイルトデモ?〉
言葉を、失くした。ジズを嘲笑うかの如く、彼の声は呪文のように話の先を紡ぐ。
〈一度ソノ“愛”ニヨッテ裏切ラレテ死ヲ遂ゲタオ前ガ、マタソノ“愛”ヲ信ジルノカ? 同ジ過チヲ愚カニモ繰リ返スノカ?〉
一言一言が胸を締め上げ、脳髄まで浸透して過去の惨劇のフィルムをフラッシュバックさせる。
傭兵を振り払って指差し、必死の形相で自分を魔女だと宣告した、かつての恋人。この右目を血の色だと罵り、それまでの思い出も幸せも全てを放り出して、己の安全の為に自分を売り渡した人。
冷水を浴びせられたような衝撃を、ジズは七百年経った今でも、決して忘れる事はない。人の心を他人が本当に確かめる術など、何一つ無いのだと思い知った。あの時の光景を、彼はジズの胸の内から無理矢理に引き摺り出す。
〈マタ、殺ス事ニナルノダ。七百年前ニオ前ガソウシタヨウニ。今度ハアノ人狼ヲ〉
そこまで言って、彼は更に深く自分を覗きこみ、
〈オ前ガ昔アノ女ヲ殺シタヨウニ〉
「やめてぇ!!」
堪らず叫んだその声には、これ以上無いくらい悲痛な響きを持っていた。もう思い出したくない。
鼓膜を突き上げる断末魔。
血の温かさ。
皮膚を突き破る鈍い感触。
その全てを彼は言葉によって蘇らせ、七百年前の絶望と恐怖のドン底へとジズを引き戻していく。
「……っ……やめて……下さい……」
震えた声でそう言いながら顔を背けるジズに、彼は窘めるような、まるで子供が思った通りの間違いを犯したのを面白そうに見るような笑みを浮かべた。耐え切れず両手で顔を覆うジズに構わず、優しいのに何処までも相手を追い詰めるような声音で囁く。
〈アアソウダロウトモ。思イ出シタクナイダロウ、アノ悲劇ヲ。繰リ返シタクモナイダロウ。七百年振リニ愛シタ相手ナラ尚更……〉
その一言一言が胸の奥まで浸透し、涙が出そうになるのを必死に堪えた。彼は一体何者なのだ? 何故ここまで自分の全てを見透かしている? 本当に自分自身だとでも言うのだろうか?
〈私ハ警告ダケヲシニ来タノデハナイ。今ノ不安定ナ君ノ心ニ救イノ手ヲ差シ伸ベテアゲヨウ〉
静かにそう言いながら、彼は自らの仮面を外した。
「っ!」
その顔を見て、ジズは瞳を見開いて驚愕する。彼は仮面に隠されていた右目も、自分と同じく深い深紅に染まっていた。てっきり右目は自分の反対で青なのだろうと思っていたので、両目が赤いというのは予想外だ。何故?
ジズの心の叫びを読み取っているらしい彼は、仮面をベッドに置きながら、その疑問に平然と答える。
〈私ハオ前ト対極ニシテオ前自身ダ。全ク正反対デアルト同時ニオ前ト同一ノ存在〉
その回答にジズは怪訝な表情を浮かべ、眉間に皺を作った。
「……どういう事ですか?」
訝しげに尋ねると彼は少し肩を竦め、一つ息をついてからジズを見据え、
〈ソウ。オ前ハ解ラナクテ当然ダ。オ前ハ私トイウ存在ヲ無意識ノ内ニ創リ出シテシマッタノダカラナ〉
「私が……貴方を創った?」
〈アノ悲惨ナ死ヲ遂ゲタオ前ハ、己ノ罪ニ押シ潰サレタ。アノママデハ自己破壊ニ繋ガリ、魂自体ガ粉々ニ砕ケ散ッタ事ダロウ。ソコデオ前ハ、全ク無意識ノ内ニ私トイウ存在ヲ作リ出シタ。怒リ、憎シミ、恨ミ、絶望……ソウイッタ感情全テヲ己ノ心カラ分離サセヨウトシタノダヨ。結果、オ前ガ己ヲ保チ続ケルタメニハ、私トイウ“負ノ感情ノ凝縮体ヲ生ミ出ス”他ナカッタトイウ訳ダ〉
絶句した。
つまり、自分は自分を守るために、彼という分身を生み出してしまったという事なのだ。この右目の赤は自分の罪人の証。彼の両目が深紅で染まっているのは、まさに彼が“罪”そのものであるからに他ならない。
今目の前にいるのは、己の罪から生まれた子。
自分が創り出してしまった、対極にして同一の分身。
〈私ハオ前ヲ護ル為ニ創ラレ、誰ヨリモオ前ヲ――己ヲ愛スル為ニ創ラレタ。ソレコソガ私ノ存在意義ダ。他人ヲ愛シテ裏切ラレ、絶望ヲ再ビ味ワウ事ヲ恐レタオ前ハ、誰ヨリモ己ヲ愛ソウトシタ。何ヨリモ自己愛ニ執着シタ。勿論今デモアノ女ノ事ヲ愛シテイルダロウ。シカシ愛シイト想ウト同時ニ彼女ヲ憎ンデイル。モウ裏切ラレタクナイト願ウ君ノ本心ハ、自分ヲ愛スル事デ満タサレタ〉
自分で、自分は裏切れない。
〈ダカラオ前ハ――〉
彼の冷たい手が、頬に触れる。
〈私ダケヲ愛スレバイイ〉
彼の唇はそう言い終わると同時に、ジズの唇を塞いだ。
「――――っ!?」
動揺するジズから唇を離して、色違いの瞳を覗き込みながら彼は囁くように言葉を綴る。
〈オ前ヲ本当ニ愛シテイルノハ私ダケダ〉
あまりにも深い紅の両眼に見据えられ、抵抗する事も忘れて凍りついた。不敵な笑みを浮かべたまま、彼は続ける。
〈オ前ニハ私サエ居レバイイ。私ダケヲ愛シテイレバ、契約違反ニモナラナイノダカラ〉
言いながら髪を撫で、頬を撫でる彼の指は、柔らかくも吸いつくように冷たい。
屍肉の感触。
〈私ハオ前ヲ裏切ラナイ〉
その瞳から、言葉から発せられる威圧に喉が詰まり、ジズはただ、されるがままに冷たい感触に肌を粟立たせた。
〈私ハオ前自身ノ中ニ居ル。故ニ永遠ニ離レル事ハ無イ〉
言いながら、ゆっくりと手のひらをジズの眼前に掲げる。
〈私カラハ、逃レラレナイ〉
そう言い放ち、彼の手から目に見えない何かがジズの目を圧迫したような錯覚を覚えた刹那、視界は暗闇に塗り潰された。
それに気付くと同時に、ジズは意識を失った。
再び目を開けた時には、もう日が完全に沈んでいた。
ゆっくりと上体を起こし、時計に目を向けると既に五時間が経過している。
しばし何故自分が意識を失っていたのかに思考を巡らせ、あの分身に思い至ると同時に素早く部屋を見回した。
しかし、部屋は普段のそれと、何ら変わりはない。部屋の温度も正常に戻っていた。あまりにもあっさりと普段の状態にある空間で、ジズは不安と怪訝に眉を顰める。
――夢……だったのでしょうか?
暗い天井を見上げ、逡巡する。あの声も、姿も、何もかも幻だったのではないだろうか?
そんな思考を巡らせながらベッドから足を降ろし、壁に歩み寄る。とにかく日が落ちてしまって真っ暗なので、部屋を照らそうとランプを点けた。
柔らかな灯りに部屋が浮き出される。その様に何となく安堵し、目を細めて息をついた。
やはり、全て夢だったのだろう。
そう自嘲気味な笑みを漏らし、ふと照らし出されたベッドに目を向けて、戦慄した。
ベッドの上で、あの時“彼”が外した仮面が鎮座していた。
見間違える筈もない。自分と正反対の漆黒の半仮面。彼があの時外したのと全く同じ状態で、それは自分を見上げている。
――夢じゃない!!
そう確信すると同時に、あの分身の姿と声が強烈に頭蓋にフラッシュバックする。
あれはやはり――自分自身……
青褪めた面持ちのまま、ジズは素早く身を翻して部屋を飛び出し、普段の紳士らしい優雅な動作からは想像もできない程荒々しく、バンッと大きな音を立てて部屋のドアを閉めた。
無人になった部屋の中で、ベッドに乗った黒い仮面を、不可思議な薄いクリーム色の指が緩やかに持ち上げた。
手の主はそのまま仮面を自分の右顔に装着し、ゆっくりとつい先ほどジズが出て行ったドアを見据える。
そしてその口元を、不敵で冷たく背筋が凍るような笑みで歪めた。
――私カラハ、逃レラレナイ……
お粗末様でした。遅くなりまくりましたがラズ様初登場話です。
この時点ではまだ“ラズ”って名前はついていません;しかもジズの中に居ます。分離してません。二心同体です。
ジズとアッシュがくっついて、ラズがジズの体から分離するまでの三部作の内これで二つの話が消化されました。
あと一つで、“流れ”は終わります。次の話までは前作の“With time”から順番にお読み頂きたい;一応続き物ですので。
次回作もなるべく早く書き上げます!!;